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history霊泉寺の歴史

斯波義敏と霊泉寺

霊泉寺は室町時代後期の武将、守護大名で越前・尾張・遠江守護、斯波氏(武衛家)10代当主であった斯波義敏が1484年(文明16年)に自身の菩提寺として開基されたと伝えられています。

斯波義敏公は曹洞宗大本山総持寺に十九世として晋住された不見明見大和尚の孫弟子にあたる春屋永芳大和尚を拝請して第一祖とし、自身は開基となりました。
その後文明17年(1485年)に出家。入道道海と号することとなりました。


霊泉寺蔵

斯波義敏公之墓地

墓地には一族の法名も刻まれている宝篋印塔や五輪塔があり、現在も斯波家ゆかりの方々が度々参詣に訪れています。

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かつての霊泉寺。昭和初期の頃だと思われる。ある歴史書の一説によると、霊泉寺のある場所から四方7kmが霊泉寺の土地だったと書かれています。現在の子育て観音が鎮座されている右側に武衛山の登山道がありますが、ここを登ると斯波儀敏公が1470年に築城された武衛城へと続く道があり一の砦跡、二の砦と続いています。その武衛城の麓に霊泉寺が建てられました。

また延徳二年に書かれた斯波儀敏公直筆の禁制礼が保管されており、草木伐採禁止などが書かれている。

霊泉寺と池泉、味真野

霊泉寺には漫画「日本昔ばなし」の「題名:子育てのいずみ」のもとになったお話があります。かつて本堂の南西に泉ケ池という池があり、その昔甘酒が湧き出て、この池の水を飲んだ子供はすくすくと育ったそうで、「活泉(いくいずみ)」とも言われていました。池泉町という町名はこの活泉(いくいずみ)から由来しています。

天下の大干ばつが起こった時も枯れることがなく、この地域の人々はこの池のおかげで安心して暮らせたそうで境内にある井戸はその池の名残です。

また、この池の水の味が美(うま)いと評判になり、味美(あじま)と呼び名が付き、今の味真野町の由来になったとの言い伝えもあります。

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滝川一益と霊泉寺

織田信長に仕えた滝川一益は長篠の戦で武田勝頼を討ち取り関東管領にも任じられた武将です。本能寺の変以降は柴田勝家に仕えていた一益は豊臣秀吉に降伏し越前大野に閑居。小牧長久手の戦いで秀吉軍の先方として出陣するが徳川軍に敗れ降伏。その後京都にて出家した。晩年は諸説あるが、越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村(今立の大滝神社を中心とした村人)の人々が襲撃して味真野の霊泉寺に埋葬されたと伝えられています。

この歌碑は滝川家にゆかりのある方が滝川一益を偲んで歌とともに建立されました。

「もののふの ゆかり尋ねて 虫の音の 越路にきたり うたた偲ぶも」

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